年収300万円でも楽しく生き抜く 連載2ー消費と効用の考察

 前回は値段と価値の違いについての記述でした。連載2は「消費と効用の考察」です。

 本題に入る前に題名についての振り返りです。「年収300万円でも楽しく生き抜く」ですが、そもそも給料が上がりにくいという現状を前提にしています。

 収入は横ばいで物価上昇のため、実質賃金は低下を続ける中では支出を抑えていく必要があろうかと思います。ただし必要なものまで支出を抑えてしまうとそれは生活水準の低下につながり、幸福度を下げてしまいます。いかに生活水準を保ちつつ、支出を抑えられるのかということを考えるのが本執筆の主な目的です。

まずは「消費」についての自分の見解をお話します。「消費」という言葉は「大量生産大量消費」や「消費社会」といったように現代を生きる我々にとって切っても切れないキーワードです。それは経済活動に多大な影響を及ぼしています。どの国も共通しているのは「個人消費」がその国のGDPの半分以上を占めており、一国の経済の最重要の指標の一つとなっています。

そんな経済の重要指標である「消費」と我々はどのように付き合っていくべきなのでしょうか。「消費」=「支出」と置き換えることも可能ですが、「消費」を減らせば手元に残るお金も増えます。マクロで見れば、消費が増えることは善でも、個人単位で見れば「消費」は悪と言えなくもないのです。

「消費」を英語で言うとconsumptionでその語源はconsume。意味は「飲み込む」「食べ尽くす」という意味が転じて「消費する」、「消耗する」という意味になりました。

例えばクジラが大きな口を開けてありとあらゆるものを大量に飲み込んでいくといったイメージの語で決してポジティブな言葉ではありません。現代的にアレンジすると飽くなき欲望によって大量に不要なものまで考えなしに、時には借金までして買い物をする現代人といったところです。そして消費した結果、体力(経済的余力)が「消耗する」という意味につながっていく点が興味深い。「消費」という日本語に着目しても同様です。消えて費やすとかいて「消費」。どちらもポジティブワードとは言い難く、好きな言葉ではありません。なぜ「消費活動」だとか「消費を促す」といったように「消費」という言葉を使うのか。極めつけは我々を「消費者」と呼んでいることだ。私は「消費者」という言葉は愚か者と呼ばれているのと同様に感じられ、消費を煽れば考えなしに不要なものまで買わせることができるという国や生産者側の我々への侮蔑だと感じるのは少々考えが過ぎるだろうか。「消費」といった言葉以外適当な言葉が見つからなかったのか。言葉遊びについては考えはあるもののここでは深く掘り下げることはしない。

 

 借金まみれとなり、債務超過で破産申請した個人「消費者」を正当化することはできないが擁護するならば、それは企業や政府が消費を促すことに血眼になって取り組み、返済能力のない人間にもカネを貸してまで消費を促しているという実態があろう。例えば消費者金融も信用力のない個人を高金利で貸し付けているが国も完全には規制できない。こういった無節操な消費によっても日本の経済成長の一部を担っているという事実があるからだろう。   続「消費と効用の考察」